昭和45年01月10日 朝の御理解
御理解 第70節
「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ。」
金光様の御信心を頂いておりますということは、道理に合う信心をいたしておりますということなんです。金光様のご信心を頂いておりますということはね、道理に合う信心をいたしておりますということ。何々教を信じております、私はこのように手厚う何々様を拝んでおりますと。信心はしておりますけれども、道理に合う信心をしておりませんということと同じです。
私の知っておる限りの宗教・宗派、ね、どこにか私が、まあおかしいと思うことがあるんです、ね。これは、まあ言うならば、ああ、他宗派のことを言わなきゃなりませんけれども、まあ、世界の最大宗教と言われる、キリスト教だって仏教だって、どんなに考えてもおかしい。道理に合わないことがある、ね。なるほどその、素晴らしい教えを持っておる、ね、素晴らしい、その教義・教典というものがある、のにも関わらず、おしいことに道理に合わないことを言うておる、どこにか、ね。
まあその詮索は別といたしましてですよね。例えば、おかしいことでしょう、例え、あのう、仏教の五戒、ね、五つの戒め。これを大変大切にされます。五戒を見ましても、ね、キリスト教の、いわゆる十戒、ね、いわゆる十の戒めといったような、それを見ましてもです、どんなに考えてもそれだけでも道理に合わないことが書いてある。これは「人間は万物の霊長だから万物を見て道理に合う信心」ということにならない。ね。
ならその点例えば同じ戒その「戒」が違いますよね。御神誡というのがありますね、お道にも。けれどもその御神誡のどの一つを見ましてもです、なるほど人間のさせて頂く信心だなあ、人間がなるほど「是ならば守れる」「是ならば」と合点のいく御教えばっかりでしょうが。ですからね、金光様のご信心を頂いておりますという事はね、道理に合う信心をいたしておりますという事なんですよ、もうその事だけで。
だからその事だけでおかげを受けるのですよ。金光教にご神縁を頂いておりますということ、何様でっちゃ同じことですよ、やっぱり教えはどこの教えでも同じ事と。(笑)なるほど教えはまあよく似たり、同じであったり致しましょうけれどもね、もう根本的なところにです、道理に合わない事を言うておると、ね。キリスト教あたりでも処女受胎を認めなからなければ、キリスト教は成り立たないと言われております、ね。
私は本当にあのう、尊い事だ有り難い事だと先ず分かる事はね、金光教の信心にご神縁を頂いておったという事ですよ、お互いが。私は世界の名教の所以はここにあると思うんです。道理に合うておるということ。成程まだようやく、今年で立教111年、今年は「111」のお道ではお年柄だから、もう何もかにも第一歩からと言った様な事を言われております。もう本当にそういう信心を頂きたいと思います。
111年というまあだ、いわゆる何千年と経った、あの大きな宗教は、いくらもありますけれどもです、なるほど教典を紐解けば深い、立派ねなるほどと思わして頂くような、いわゆるまあ真理であり、法則が解き明かしてある。にも拘らずです、ここんところを言うたら、どうもおかしいというところがある、ね。今日のこの御理解70節のところを頂けばです、「人間は万物の霊長であるから」という万物の霊長であるところの人間がさせて頂く信心というのは、私は金光様の信心以外にないと思うです。
と言うほどしに、お道の信心は素晴らしいのです、ね。人間は万物の霊長であるから万物をみて道理に合う信心をせよと。道理に合わない、もうどこからどう言われても、これ私、何かこう、とりわけ20年あまりというものはですね、いわゆるこの、教典をお道のこの教典を説かして頂くことに、言わば明け暮れておりますがです、もう頂けば頂くほど有り難いですね、何故かと言うと道理に合っておるからなんです。
それはね、教えそのものは素晴らしい教えがありますよ、やはりそのう教えをもって人の教導でもしようと言うのですから、何宗だって何派だって、何々教だって素晴らしいです。けれどもですね、これも私の知っておる限りの宗教ですけれどもね、そこがおかしいなというところがあります。いわゆる人間万物の霊長として合点がいかないところがあります。それを私はお道の御神誡、仏教の五戒、ね。
キリスト教の十戒、その中にです、いわゆる、不自然であるということですね。到底、人間ではできそうもないといったような、難しいことが謳ってあるということだけでもです、人間万物の霊長である人間のする信心の最高のものとは言えないというものを感じます。いやそこでですね、今日は私はその、ここのところをそんな難しゅう、深くという意味ではなくてですね。
今日はまあ言うなら浅い浅いという、浅い浅い意味においてね、聞いて頂きたいと思うんですよ。いわゆる、金光様のご信心を頂いておるということだけでおかげを受けるということですね。お道に御神縁を頂いておるということだけでおかげを受けるということです。それは道理に合う信心を頂いておるからなのですよ、金光様の御信心を頂いておりますということは、道理に合う信心を致しておりますということですよね。
何百巻何千巻というほどしの、素晴らしい教典を持っておる、そこのことは素晴らしい、深いことにおいては、広いことにおいては素晴らしい、けれども、他の宗旨・宗派の信心をしておるということは、道理に合わない信心を、いたしておりますということと同じです、極言すると、ね。金光様のご信心を頂いて、もう道理に合わないということがないです。なるほどなるほどと、広う深う分からして頂けば頂くほど、それを感じさせて頂けるのがお道の信心。
だから金光様のご信心を頂いておりますという事は、そのまま道理に合う信心をいたしておりますという事ですから、道理に合う信心を頂いておりますからおかげを受けるのです、そのことについては意味は私よく解りませんから、皆さんで考えて頂きたいと思うのですけれどもね、例えばあの、三角形ですね、この様に三角形。言うならその三角形のその三角の中に様々な人間のまあ生活があります訳ですけどね。
まあ言うならば、ずるい、実意ではない、だらしがないとかこすいとかいろいろな生活が、これは三角ということは丸に対する三角ですから、本当じゃないということだと思うんですけれどね、ね。私、意味はわかりませんけど、今日、私がお知らせに頂きますのが、三角形の頂点のところですよね。これがこう三角形に頂点のここんところ、ね。これがね、神に通ずると。
いわゆる金光様のご信心を頂いておるというだけでですね、神に通ずる訳があるんですよ、これは大変な私は事だと思うんです。これはね、私共の金光様のご信心を頂いて、教えが血になり肉になってはいないわけです、言うならば御理解3節にある、「願う氏子におかげを授け」と仰る、その、ただ願うただけでおかげを受けるという訳なんです。そこはね、私共、この生活というものが。
信心生活とはほど遠い生活をしておるけれども、おかげを受けておる。これはこれがね、ここの三角形の頂点がこのまま神に通ずる、そういうものを金光教は持っておる訳なんです。それはどこかと言うと、道理に合う信心ということなんです。金光様のご信心を頂いておるということは、道理に合う信心を頂いておりますと、ね。御理解3節の中に、御理解3節をちょっと読んでみましょうね。
「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる。」と。例えばここまでを頂きましてもです、これはもう絶対他の宗旨・宗派ではないところなんですよ。もう大変なことです。私今度、上野さんが学院から帰って来ておりましたから。
この御理解3節をやはり教団でも大変な御教えだとして頂いておりますが、その説いておるところがね、私から言わせるとかいかとこ説いてないんです、ここを説いてない、ね。「神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし」ということはね、方角、何て言うんですかね、考え違いというかね、方角違いとでも申しましょうか、いわゆる思い違いとでも申しましょうか、ね。
そういう例えば、違ったことの考え方がです、ね、その考え方そのものが天地に対して無礼いたしということになっておるわけです。ここも大変な、ああ、ところですわね。だからね、もう何気ない中に私共は天地に対して無礼いたしておるわけですよね、実を言うたら。それがね、ここにある、出てきております「前々のそういう無礼がです、積もり積もって、難儀のもとを作っておる」と仰るのですから。
この御理解3節のこの辺のところが分かったらですね、もうこれからめぐりをつくらんでもすむというほどしの素晴らしいことなんです、ここは、ね。「この度、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす」と。「理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子」ね。
「上下立つようにいたす」という、この辺は、まあ大変有り難いところとして、まあ今、一般に説かれておるところ、また事実有難いところですけれども、その根底を成すところはですね、うん、「神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし」というところ。これは決して、そのこういう宮寺とか日柄方角ばかりという意味じゃないのです。
私どもの思い違いということ、ね、検討違いのことを思うておるということ、しておるということ。そのこと自体が天地に対し無礼いたしということになる。それが難儀のもとをつくると。こういうような、あぁ例えば、あぁそのう巡りの断絶と言うですかね、難儀のもとを絶たせて頂くほどしのことを、どういう大宗教でも説いてはいないと思いますね。まあこれは御理解3節の説明になりますけれども。
まぁなら今日は、もう見やすいというところから頂いておりますからね、御理解70節のこの「人間は万物の霊長であるから万物をみて道理に合う信心をせよ」と。万物の霊長であるから、だから、お道の信心は万物の霊長である、いわゆる霊長たらしめるための信心だというふうに今まで難しく頂いてまいりましたね。ところが今日はそうじゃないんです、そういうことじゃないです、ね。
私共はねお道の信心、金光様のご信心を頂いておるということ、道理に合う信心をいたしておりますということだというほどしに簡単なことなのです、今日私がみなさんに分かってもろうて、ね、金光様に御神縁を頂いて、御信心を頂いておりますということは、そのまま道理に合う信心をしておるということなの、まあだんならそのでけておるということじゃないということなんだ。実際もう三角形という、ね。
私は今日、御祈念中にいろいろなことを考えさして頂いて、小学校時代の友人が、もう本当に少なくなりますね、もう私どもぐらいの年配ですけれどももう、そうですねやっぱり3分の1ぐらいしかいないでしょう。ずっとこう思うてみた、ほうあの人は頭のいい人じゃった、子供時は実に正直でまじめであった、勉強は大してできなかったけれども、とにかく陰日なたのない、本当にまじめな人物であったと。
今にして思うとそういう友達がおった。ところがあの人は早死にしてしもうた、この人はもう正義感で腕力も強かったが、間違うたということは先生にでも食って掛かるほどしの、友人がおった。兵隊になった、とんとん拍子に成功したけれども、敗戦と同時に引き揚げて帰って来た。頭がいい、そのそういう、その正義派ですから、町でも信用、人気を受けて、もうそれこそ、非常に体格も立派ですしね。
やっぱりあのう、子供ん時と同じに、戦後組合に務めておりましたが、もう決して、その、何て言うんですかね、そのう、こひいきをしない、ごまかしをしないというふうに皆から信用を受けとったんですけども、この人がこんな病気をするとは思えないような病気にかかって、もう私特にこの人は親しかったから亡くなる何日前に私お見舞いに久留米に行きましたんですけれどもね。
もうあれほどしの元気な、そのう友人がですもうもうとにかく大坪君、もう病気には勝てんちゅうてから言っておりましたが2、3日後亡くなりました、ね。大変御神酒が好きな人でしたから私、御神酒を持って院長さんにあのう尋ねました。この状態の時この酒を、こうして一本一本持って来ておるが与えてもいいですかって、はぁもうどうせ難しかっちゃけんあげてもいいですよちゅうてから、もうそれを大変喜んでまあ身にすがっておりますがね、うん。
ああいう立派な、言わば間違ったことと言うたらもう、それこそ誰が、誰だって目を盗んだって間違っておることは間違っておるじゃないかと、正すほどしの言わば正義派の人がです、不幸せに早死にして、逝ったと。まあそういうのが友達の中にいくらもおりますけれどもね、まあそういうのに限ってというわけでもないけれども、皆不幸せであり、早死にをいたしております。
小学校の時に教えて頂いた先生方が幾人もありますけれどもその中の一人、もうこの先生は私共は本当にもう立派な先生だと思うておった、また立派な先生でした。もう体操の好きな人でもうそれこそ、撃ち殺してもその、死なないような立派な体格の先生でした。もうえこひいきなんか全然ない、もう実にそのうよい先生でした。枝光という所がありますね、あそこに養子に行かれましてね。
そしてそこで胸の病気にかかられました、私はもう戦後、物の乏しい時でしたけれども、まあお見舞いでも持ってから行きました。大変それこそ涙を流して、まあ喜んで下さりましたがです、こういう素晴らしい先生が、どうしてこういう病気にかからんなさらんじゃろうかと思うて私は不思議に思うた。というようにですね、私どもの周囲には本当に、あの人は仏様じゃろうか神様じゃろうかというような人がです、ね、
不幸せで終わっていっておるという事実を見ますときにです、ね、その原因がどこにあるかと、御教えの中にもありますようにね、世の中には、仏様であろうか神様であろうかと、仏様のような人じゃという人が次々難儀なことが起こってくると、どうしたことであろうかというようなことがあろうがと、信心しておかげを受けるのとは別ものじゃとこう仰っておられる、ね。
それに引き換え、なら今度は金光様の御信心を頂いております者の上を一人一人こう思うてみる、なるほど教えが身について立派な生き方をしておる人もあります。けれどもずるい裏表がある、ね、親切がない冷たい、ね、だらしがないこすいまあ挙げるなら様々な、その、ものを実際に本当にそれをこう赤裸々に現して居る様な人が沢山あります、金光様のご信者の中に。私共もやっぱそれの御多分に洩れない。そこで本当に私のような者がと思わなければおられないのです。
今、私は小学校の友人のことを、ずっとこう思うみましたんですけれども、その中に私共が入っていったら、もうとにかくやっぱり、つまらん者の仲に入る私でしたけれどもです、いわゆる、金光様の御信心を頂いておったというだけで、おかげを受けておる、ね。それこそ、はばかりながらおかげを受けておる。根はないけれども、はばかりながら、繁盛のおかげを頂いておる。
その証拠に、言わば青菜に塩と言う様にですね、信心頂いておってもさあ何かというたら、もう青菜に塩をかけたように、ぐしゃっとなっとるじゃないかと、ね。この辺のところまでは金光様の御信心を、頂いておるというだけで、おかげを頂いておるということなんです。一つ銘々が一つ反省してみなさい。本当に自分の友達にとっても優しい、親切でね、裏表のない、ね、
まじめでよう働くという人達がです、不幸せな人が沢山ありましょうが、早死にをしていった人がたくさんおりましょうが、ね、それは金光様の御信心に縁を頂いていなかったからなんですよ、それに反対に、私共はおかげを頂いて、神様の御縁を頂いておったから、私どもがごたるとでも、このようにおかげを受けておるということ。それはこの三角形、間違っておるけれどもです。
ここんところが、神に通じる一点があった、それは私共が、道理に合う信心を頂いておるからだということなんです、ね、金光様の、御信心をさせて頂いております、ということは、道理に合う信心を、頂いておりますということと同じなんです。と言うて、んならその、金光様の御信心の内容というものがです、自分のものになっていなくてもです、願う氏子におかげを授けと仰る。
そのおかげの中に、潤うておるということ、おかげを受けておると、はばかりながらおかげを受けておると。けれどもここにまあ、思わせて頂かなければならんことはです、はばかりながらの証拠に塩をかけられると、塩ということは、ね、まあ言うならば苦いこと辛いこと、難儀なことということでしょう、ね、それでぐしゃっとするのは根がないからだということ。そこで、私どもがね、そこんところをです、ね、
「願う氏子におかげを授け」というおかげを授けて頂くというだけのおかげでなくて、ね、「理解申して聞かせ」と仰せられる、御理解3節にありますね、「理解申して聞かせ」という、その理解を私どもが理解して、ね、教えが身に血になっていくという信心をさして頂くというところからです、言うならば鬼に金棒と。例えば御理解3節の内容なんかが分からして頂いてです、「前々のめぐりで難を受けおる」と仰る。
その「前々のめぐり」のところはめぐりとしてです、お詫びさしてもらい、お取り祓いを頂いて、これからは金輪際めぐりをつくる生活にはなりません、検討違いなことは思いません、検討違いなことはいたしません、ということは仏教で言う十戒とか、ね、キリストあ、キリスト教でいう十戒とか仏教でいう五戒とかといったような、とてもとても私共ではそれを行じもできないようなことではなくてです。
御神誡を紐解かせて頂いてです、信心さして頂く者はかくなからなければいけないぞということをです、見やすう分からしてもらい、見やすう行じようと思えば行じれることをです、行じさして頂いて、その内容としてまいりましたら、いよいよおかげを頂きます。いわゆる円満、ね、今度は三角ではなくて真ん丸いと、おかげは和賀心あると仰る心なのだと、ね。この心は、ね。
なるほど三角形のこの神に通ずるという、それではないけれどもです、もう真ん丸ということはです、そのままがね、天地と共にある、神様と共にあるということになるのです。これはこうして合唱しておかげを受けるというのではなくてです、ね、天地からこう恵んでもらうというのではなくて、天地と共に、神と共にあるというおかげです。いわゆる、まあ円満具足とでも申しましょうかね。
和賀心っていうのはそういうものなんです。和らぎ賀ぶ心というのはそうなんです。その代わりどちらへ転がしてもです、これはもう青菜に塩ということじゃないわけです、ね。信心のまだ浅はかだった時には、このようなことが起こったら、もうそれこそ青うなっとったけれども、だんだんおかげを頂かせてもろうて、神様が分からして頂くようになったら、ね、それを神愛として受けられる。
いわゆるどちらへ転んでも有難い、勿体ないで受けていけれるという、真ん丸い心を目指していくとするならです、いよいよ万物の霊長としての値打ちが、そこに備わったということになるです。私どもは、今日、まずこの御理解70節から分からして頂くことはね、金光様の御信心を頂いておるということだけで、私どもはおかげを受けておるという事実。信心がなく、あの、なくてです、ね。
「信心のある者とない者は親のある子とない子ほどちがう」と仰る、それを私は今日ほど感じたことはなかった。あのように立派な友達が、あのように立派な先生が、あのような不幸に終わっていかれた人たちのことを思うてです、ようもようも金光様の御信心を頂いておったものだなあ、ご縁を頂いておったもんだなあ、身は三角のような信心内容だけれども、やはり神に通ずるもの、ね。
金光様の御信心を頂いて、いわゆる万物の霊長であるから道理に合う信心をせよと仰る、道理に合う信心を頂いておったということだけでです、おかげを受けてきた。そして、最近ではです、そのことが少しずつ、その「理解申して聞かせ」と仰るところが分からしてもらうようになり、まあおかげを頂いて少しぐらいは、ね、どちらへ転んでもおかげぞと、難はみかげぞというふうに思えるようにだんだんなってきた、ね。
そこに本当は万物の霊長としての値打ちが値打ちとして備わるおかげを頂いていきつつある、ね、目指すところはそこ。だから私共がですね、青菜に、信心は分かってはいないけれども、金光様の御信心を頂いておるから、はばかりながらこのようなおかげを受けておるということ。その、ところがはばかりながらですから、ね、塩をかけると、あ、ぐしゃっとなる。そこにまあだ私どものね。
三角であるという信心を思わしてもろうて、ね、例え塩をかけられても、ね、かえって味が出るほどしの、それをお恵みとして頂けれるほどしの信心を頂いてまいりましたら、いよいよ有難い、しかしそこはまあ言うならば、私がいつも言う、難しいことになりますよ、ね。けれども、難しいからこそ、楽しいのであり、難しいからこそ、ね、限りなくそれに取り組んでいくことの、楽しみがあるわけなんです、ね。
ただ平易に平易にですね、平たく言うてですね、金光様の御信心を頂いておるというだけで、おかげを頂くのは、ね、道理に合う信心だからなのです。ね。だから、そういう意味でです、私は昨日参拝して来た人たちにもう一人一人すすめたんですけれども、この玄潮という、雑誌がもうこれで4回目、年に4回発行されておる。それが私も知りませんでしたし、秋永先生もそれを知らなかったらしいんです。
昨日一昨日今年初の幹部会がございましてね、原鶴に参りましたもうそれこそ初めから最後まで、もうとにかく合楽の信心に続け、合楽の信心もうあの生き方でなからなければお道の信心はもうだめだっちゅうて、極言してその褒められたっちゅうんですね。ほんでまあ本当に平田さんがああして言われるが、本当に合楽の信心を本当に分かられたら、それこそ大した事になるだろうと、まあだ本当に知られないのにですね、
ああ言うておられるのですからね、平田さんは。ですけん、秋永先生が本当にだから、もうどうでもひとつ、あのう、今度は寒修行の明けにひとつ、平田さんあたりに来てもらって話でもしてもらおうかちゅってから、まあ申しておりましたが、本当に知られないけれども、何とうなしに感ずる合楽の信心でです、あぁいうこれからならあの、信心でなからねばいかん、ね。
特に今度の青年会の方達がバス一台46人、年頭参拝をしたということについて、親先生はこれは合楽のひれいではないぞと、九州のひれいぞと私の方では親先生がそう仰ったということを聞いてですね、もうとにかく膝をたたかんばかりにしてからです、そうばいっち、もうそげな教会がなくなったっちゅうてからその言わっしゃった。ね。そうどこじゃなか、合楽のごひれいじゃなか、九州のごひれい。
そういう九州のごひれいを思うてです、お互いが合楽的な信心にならなきゃいけないという事を、まあ言われたのはよかったんですけれども、最後にねこんな事になったんだそうです。それでその各教会でどこの教会でも100冊とりよる。所が合楽は21、20冊しかとりよらんち。こっちはその申し込み用紙が来たのが20人分でした。だからはあそがしことりゃよかっちゃろうと思いよった所が、段々内容も立派だから、皆んなに読んでもらうといいなあとは思いよりましたけれどもですね、
それで、それはとにかく、現在、甘木は350部、50人がとりよるそうです。だから、せめて合楽も、まあ100人か150人くらいはね、頂かなきゃならん。それは頂かなきゃならんじゃなくて、実際にですね、素晴らしい本なんです。それは信心の深さといったようなものではなくてですね、いわゆる漫画的な金光教を説いてありますよね、ある意味では。だから誰でもね、
読み出したら最後まで一気に読んでしまおうと言った様な記事でいっぱいなんです。なかなかもう実にこれはもう損得抜きで作ってある。平田さんがこれはあのう理事長ですかね、をしておられる、この雑誌なんですがね。ですから信心のない者信心の薄い者に対象としてこの本ができてある。それで私昨日はもうお参りをして来て、これが年に200円なんですよ。正会員が。
そうすっと、特別会員っちゅうのが千円で、千円でしたね、ね。それはもう希望という形になるんだそうです。だからあぁそれにも入って、できれば入って頂きたいけれども、まあ第一正会員のですね、その200円のを納めて頂いて、これを年4回あのとらせて頂くという、ことを皆さんに、お願いしたいとこう思うとりますけれども、それがあのう、この号からひとつとりたいと思うんです。
と言うのはこの第4号から文芸欄とそれから教祖様の、お伝記がですね、漫画になって出てきてる。だからもうそれも金光大神を読むように、あのう正確なことを書いてある、こんな、皆さん誰でもこれ見たらいい(笑)。今月号から始まってるんですよ、それが。ですから、私も早速、昨日50冊だけ申し込みました。それであのう皆さんこれを今日にでも200円払い込んで。
申し込んで帰って頂くように。内容もですね。これは信心のしない息子、娘、親戚の方にでも読んでもろうて、抵抗を感じない、ようなご本なんですよ。ですからそういう意味でも今日のご理解じゃないけれども、金光様の御信心を頂いておるというだけでですよ、ね、おかげが受けられるというのですから、こういう事から御神縁を頂いたというだけでその人が助かるというのですから。
いよいよ私は世のお役に立たして頂こうという意味で、一人で5冊でも10冊でも、言うなら持っといてです、これをひとつ読んでくれと、お導き用でも、お導き用でなくても、金光様の御信心を理解させる、ね、意味合いにおいてでも、私これはあぁいいご本だというふうに思うのです。どうぞ早速、申し込んで頂けますようにお願いいたします。
どうぞ。